トップ > 検索結果
奥州藤原氏にゆかりのある史跡
陣ケ岡は、昔から軍事の要衝であり、征夷大将軍・坂上田村麻呂や、源頼義・義家が立ち寄った伝説が残る場所です。源頼義・義朝は、前九年合戦のときに、陣ケ岡に陣営を敷いたといわれます。頼義・頼家父子が勧請したとされる「蜂神社」や頼義が造らせたと伝わる「日の輪・月の輪」などの史跡も残っています。
陣ケ岡は奥州藤原氏ともゆかりの深い地。源頼朝による奥州藤原氏征伐の際、頼朝は陣ケ岡に陣をはり、殺害された藤原泰衡の首が届けられるのを待ちました。さらし首にするときに洗ったとされる清水があり、「首洗いの井戸」と呼ばれています ( 後に移築復元されたものです ) 。その後も、たびたびの軍事の要衝地となりましたが、今は、春は桜やツツジ、夏はアジサイ、秋は紅葉が美しい場所です。平泉を訪ねた後にぜひとも足を伸ばしたい史跡。
南部のゴールドラッシュを支えた金山
紫波町の東側・佐比内地区には、僧ヶ沢金山や洞ヶ沢金山、朴木金山など多数の金山の採掘記録があり、多くの金を産出していたことがわかります。
金山の採掘権を請け負ったのは京都の丹波弥十郎でした。江戸幕府のキリスト教弾圧が厳しい時代で、弥十郎が連れてきた労働者のなかには、多くのキリシタンがいたとのこと。鉱山の中には警察権が及ばなかったため、たくさんのキリシタンが潜んだといわれています。鉱山はもっとも安全な隠れ場所だったのです。金山からはキリシタンの墓碑などが発見されています。盛岡藩最大といわれた「朴木金山」でしたが、わずか30年ほどで終わりました。当時の繁栄は「佐比内金山祭」から窺い知ることができます。毎年8月に行われ、住民による「佐比内金山太鼓」が披露されます。
宮沢賢治の作品に登場する七つの森
花巻出身の童話作家・宮沢賢治の作品にたびたび登場する「七ツ森」は、生森、石倉森、鉢森、三角森、見立森、勘十郎森、稗糠森を総称して言います。賢治は理想の地として岩手を「イーハトーブ」と名付け、作品に登場させました。それらの風景は今でも残っていて、人々に感銘を与えてくれます。そんな風景が「イーハトーブ風景地」として国指定名称指定されました。平成17年 ( 2005 ) 3月に「七ツ森」も指定されました。
国道46号を秋田方面へ行くと、「七ツ森森林公園」があり、七ツ森を散策できるように遊歩道が整備されています。ガクアジサイやドウダンツツジ、ヤマツツジなどの花が楽しめるほか、野鳥のさえずりも聞こえてきて、心が和んできます。七ツ森の頂上から眺める雫石の町の風景もすばらしく、一枚の写真のよう。季節や時間に応じて、異なった表情を見せるのがまた魅力的です。
南部よしゃれの発祥は雫石!
「雫石よしゃれ」は、雫石につたわる郷土芸能であり、民謡で歌われている「南部よしゃれ」の元唄にもなったといわれています。雫石では、祝いの席、特に婚礼の祝宴にはかかせないものとして歌われ、踊られます。本来は座敷踊りですが、8月の「雫石よしゃれ祭」のときには、絣の着物姿に編笠をかぶった雫石あねっこによるパレードで踊りが披露されます。
一般的な南部よしゃれは、城を攻略するために男は茶屋の女将から情報を得ようと女将がかけているたすきをほめるが、不審に思った女将がそんな手にはのらないと、男を相手にしなかったというもの。雫石の女性の貞節と心意気を歌っていて、「南部牛追い唄」や「からめ節」とともに南部を代表する唄です。毎年8月下旬には「南部よしゃれ全国大会」も開催されています。
見よ、この石垣美! 散策が楽しい公園
「盛岡城跡公園」は、南部氏の居城だった「盛岡城」を整備し、明治39年 ( 1906 ) に「岩手公園」として開園しました。「盛岡城」は、初代藩主・南部信直が築城を開始し、三代・重直の時代に完成。往時の建物はなく、美しい石垣だけが残っています。二ノ丸には日本最古の石垣普請奉行銘石 ( 貞享3年・1686 ) が残っているなど、貴重な石垣も。
「盛岡城」の石垣と一体化するように建つ「桜山神社」は、南部氏の総鎮守。盛岡っ子には「桜山さん」と親しまれ、一年中、参拝客で賑わっています。境内には巨大な三角形の石「烏帽子岩」があり、堂々とした威容を誇っています。築城する際に三ノ丸を二ノ丸と同じ高さにするために掘り下げたら現れたもの。二代・利直は「宝大石」と崇め、今ではパワースポットとして知られ、境内で似たような形の石を見つけると幸せになれると言われています。
春は桜、秋の紅葉、冬は石垣の雪景色と、四季折々の風情を見せ、市民の憩いの場となっています。
1300年にわたり、日本の鉱業を支えた鉱山
「尾去沢鉱山」の歴史は古く、和銅元年 ( 708 ) までさかのぼります。砂金が奈良時代の東大寺の大仏や平安時代、奥州藤原氏によって築かれた平泉でも用いられたと伝えられています。金が枯渇してきた元禄8年 ( 1695 ) には銅鉱が発見され、日本の主力銅山の一つとなりましたが、昭和53年 ( 1978 ) には、銅価格の低迷と鉱石の枯渇により閉山しました。
現在は観光坑道が公開されていて、江戸時代から近代にかけての鉱山の様子を知ることができます。また、ガイド付きマイクロバスでまわる「産業遺産コース」もあり、尾去沢鉱山の選鉱場跡、製錬所跡や、東北地方で最も早く文明開化の恩恵を受けた尾去沢の街並みを見学。砂金採りや天然石掘りなどの体験コースもあり、こちらは子ども達に人気。鉱山産業のうつりかわりを知ることができる、日本最大の銅鉱山史跡です。
見る者を幽玄の世界へ惹き込む舞楽
「大日堂 ( 大日霊貴神社 ) 」の創建は古く、継体天皇がこの地を開拓したダンブリ長者の徳と娘の吉祥姫 ( 継体天皇の后 ) の御霊を慰めるために建立したのが始まりとされています。その後、元正天皇が養老2年 ( 718 ) に再建し、大日堂舞楽を伝えたとされています。「大日堂舞楽」は約1300年の歴史を持つ秋田県内最古の舞踊と言われます。正月2日に行う祭典に奉納され、この舞楽に参加する能人と呼ばれる氏子の中から35人が選ばれます。長い間受け継がれてきた伝統、厳かな神事の舞いは、まさに「神々の舞い」といわれるだけあります。国の重要無形民俗文化財。
明治期のノスタルジーを感じる芝居小屋は今も現役
国内初の露天掘りで発展を遂げた小坂鉱山。「康楽館」はその厚生施設として建築されました。こけら落としは明治43年 ( 1910 ) 8月16日、以来、歌舞伎や新劇、映画などが上演されましたが、昭和45年には一般の興行が中止されました。町民の運動もあって、昭和61年 ( 1986 ) に復活、現在は、現存する国内最古の芝居小屋として存在しています。
外観は正面がアメリカ木造ゴシック風で側面が押縁下見張の純和風という和洋折衷、桟敷は舞台に向かって緩く傾斜し、当時として画期的な電灯による照明設備がありました。芝居小屋特有の花道や切穴 ( すっぽん ) もあり、今も生きた芝居小屋として、有名歌舞伎役者による「歌舞伎大芝居」も催行されています。
明治期の西洋建築美の美しさにうっとり
明治38年 ( 1905 ) に建設された「小坂鉱山事務所」は、小坂鉱山が繁栄を誇った当時の文化遺産。ルネッサンス風建築様式の建造物で、平成9年 ( 1997 ) まで現役の事務所として使用されていました。
館内には、小坂鉱山事務所の特徴や移築復原の記録を、映像・音響で立体的にご紹介する展示コーナーや常設展示があり、近代鉱山の礎を築き上げたクルト・ネットーの功績、小坂鉱山の繁栄がもたらした文化や華やぎを感じられます。2階にはレストラン「あかしあ亭」やおみやげショップ「明治百年堂」があり、ひと休みすることができます。また、「衣装室」にはレンタルドレス ( 有料 ) が並べられ、お気に入りの1枚を着て館内の好きなところで写真撮影もOK! 当時の人たちになりきって、想い出の1枚を。
当時の雰囲気もそのまま。美しい外観は撮影ポイント
天使館 ( 旧聖園マリア園 ) は、昭和6年 ( 1931 ) に小坂鉱山の子ども達を対象にした幼児教育施設として始まりました。昭和7年 ( 1932 ) に建設され、その後名称を変えながらも平成4年 ( 1992 ) まで実際に使われていました。
明治時代の建物ではありませんが、ルネッサンス風の玄関や上げ下げ窓など、当時としてはめずらしい特徴の洋風園舎。「聖園マリア園」の歴史を伝える園長室のほか、多目的ホールがあり、集会の開催や交流の場として活用されています。平成15年 ( 2003 ) に国登録有形文化財に指定されました。